おまけとして,アヴェ・ヴェルム・コルプスについて書きます。 これも,「ミサを読む」と同様,1992 年に PC-VAN の CLASSIC SIG の 「CLA音楽院」に書き込んだ記事をもとにしています。
1. 背景
復活祭はいうまでもなくクリスマスと並んでキリスト教でもっとも重要な祭であ り,復活の主日だけでなくその前後あわせて3か月くらいは重要な祝祭日が目白押 しです。主なものを並べると:
| 謝肉祭(Carnival) | 灰の水曜日の前3日間(これは教会とは無関係) |
| 灰の水曜日(Ash Wednesday) | 復活祭の40日前 |
| 四旬節(Lent) | 灰の水曜日から復活祭の前日まで |
| 枝の主日(Palm Sunday) | 復活祭の1週間前 |
| 聖週間(Holy Week) | 復活祭前の1週間 |
| 聖木曜日(Holy Thirsday) | 復活祭の4日前 |
| 聖金曜日(Holy Friday) | 復活祭の3日前 |
| 聖土曜日(Holy Saturday) | 復活祭の2日前 |
| 復活の主日(Easter, Pasch) | 春分(3月21日)後の 最初の満月後の 最初の日曜日 |
| 主の昇天(Ascension Day) | 復活祭の40日後(木曜日) |
| 聖霊降臨の主日(Pentecost, Whitsunday) | 復活祭の50日後(日曜日) |
| 三位一体の主日(Trinity Sunday) | 聖霊降臨祭の1週間後 |
| 聖体祭(Corpus Christi) | 聖霊降臨祭の12日後(木曜日) |
「〜日前/後」はその日を含んでいます。「2日前」=「前日」。 呼び方は宗派の違いなどの原因からいろいろあって,どれを使ったらいいのか よくわかりません。不適当なのがあったら教えてください。
ミサや時課では,それぞれの日によって異なる歌詞の曲を歌います。アヴェ・ヴ ェルム・コルプス(めでたしまことのおんからだ)は,題名からも察しがつくよう に,聖餐のパンとぶどう酒がキリストの体に変わるという秘蹟を祝ううたで,聖霊 降臨節(Whitsuntide, 聖霊降臨祭後の1週間)や聖体祭のミサ用の続唱(セクエ ンツィア)の歌詞として14世紀に作曲されたものだそうです。
だんだん音楽の話になってきました。続唱というのは本来は聖歌の中のアレルヤ 唱で音を長々とひきのばしている部分(ユビルス)に別の歌詞をつけたものだそう ですが,中世に大流行したものの,教会による典礼の綱紀ひきしめにあって,現在 は下の5種類しか典礼では使われていません。
| Victimae paschali laudes | 復活祭用 |
| Veni Sancte Spiritus | 聖霊降臨祭用 |
| Lauda Sion | 聖体祭用 |
| Stabat Mater | 悲しみの聖母の記念日(9月19日)用 |
| Dies irae | 死者の記念日(11月2日)用 |
モーツァルトの 曲も 続唱でなく モテットですが, 伝統に 従って 聖体祭のために 作曲されました。
復活祭の日付の決め方はやっかいです。 詳しくは,別項 復活祭の日取りの計算を参照してください。 年によりひと月以上ずれることがありますが, 平均するとだいたい4月上旬でしょう。 聖体祭はその61日つまりふた月後ですから 6月上旬±半月ということになります。 1791年の復活祭は非常に遅くて4月24日, よって聖体祭は6月23日です。 バーデンに療養に出かけた コンスタンツェを 見舞いに 出かけた モーツァルトが, 当地の 聖体祭のために この曲を書いたのは 6月18日(自筆譜によれば17日) のことだったそうですから, ちょっと 練習してすぐ 実用に 供されたわけでしょうね。
ところで,モテットとは何ぞやというとよくわからない。中世やルネサンスでは 性格が割合はっきりしてるのですが,18世紀のモテットの形式上の特徴がどこに あるのかほんとによくわからない。「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が伝統的な合 唱曲なのに対し,モーツァルトのもうひとつのモテット「踊れ,喜べ,幸いなる魂 よ」はカストラート協奏曲の異名を持つ派手な3楽章形式の曲であり,どう見ても 共通性などなさそうです。
2.本文総論
まず,全文をあげます。以下はグレゴリオ聖歌の歌詞で,おおむね平凡社の音楽大 事典によりました。モーツァルトのそれとは多少異なっていますので,右に違いを 記しておきます。結構この語句の違いと言うのが曲づくりにも影響しているようで, おもしろい。
| 行 | 本文 | 音節構造 | モーツァルトのもの |
|---|---|---|---|
| 1 | A・ve| ve・rum| cor・pus| na・tum| | 2 + 2 + 2 + 2 | |
| 2 | de Ma|ri・a| Vir・gi|ne| | 2 + 2 + 2 + 1 | |
| 3 | Ve・re| pas・sum|, im・mo|la・tum| | 2 + 2 + 2 + 2 | |
| 4 | in cru|ce pro| ho・mi|ne| | 2 + 2 + 2 + 1 | |
| 5 | Cu・ius| la・tus| per・fo|ra・tum| | 2 + 2 + 2 + 2 | |
| 6 | flu・xit| a・qua et| san・gui|ne|: | 2 + 2 + 2 + 1 | unda fluxit et sanguine |
| 7 | Es・to| no・bis| prae・gus|ta・tum| | 2 + 2 + 2 + 2 | |
| 8 | mor・tis| in ex|a・mi|ne|. | 2 + 2 + 2 + 1 | in mortis examine |
| 9 | O Ie・su dul・cis, | (8行目で終り) | |
| 10 | O Ie・su pi・e, | ||
| 11 | O Ie・su fi・li Ma・ri・ae. | ||
| 12 | A・men. |
グレゴリオ聖歌とモーツァルトとの歌詞の差が何に由来しているのかは調べていません。 他の作曲者についてしらべてみると:
O dulcis, O pie, O Iesu fili Mariae: miserere mei. Amen.
14世紀の歌ですから,もはや母音の長短は関係ありません。一目見ればわかる ように,前の8行と後ろの4行は異なった構造をしています (モーツァルトでは後半4行は省略されているので,以下説明を省略)。
前半8行は,奇数番目の行が8音節,偶数番目の行が7音節になっています。( 6行目の -qua et は1音節と勘定するのでしょう…)
しかも2音節ずつ組になって(これを脚という。ただし偶数行の最後の脚は1音 節),脚の最初の音節を強く,それ以外の音節を弱く読むようです(こういう 脚を trochaeus という)。
構造をわかりやすくするために,脚の終りを縦棒(|)で,それ以外の語中の音 節の切れ目を中黒(・)で示してみました。
前半8行は,さらに韻を踏んでいます。すなわち2・4・6・8行目がいずれも -ine で,1・3・5・7行目が -atum で終っています。いわゆる女性韻という やつかな?
このように,強弱で脚を作り,韻をふむのは新しい詩の特徴です。ギリシャ・ラ テン(ついでにインドも)の古い詩は,(ホメロス以来)韻を踏まず,長短で脚 を作っています。聖歌でも古くからあるものは韻を踏んでいません。新しいもの は,レクイエムの中の怒りの日(dies irae)のように韻を踏んでいます。
但,モーツァルトK618では偶数行目が少し不規則で,しかも一行目の natum を2行目にまわしたように作曲しているので,2行目が9音節になり,1行目は 韻を踏まないことになります。(1行目は ave を繰り返すので8音節のまま) 6行目と8行目は大きく異なっています。意味は殆どかわらないので,韻律を変 えるのが目的だと思いますが,どう変えようとしたのかいまひとつわかりません。 少なくとも4行目と8行目を弱い音節で始めようとした,という位は言えるでし ょうが。K618のリズムを聞いていると,4,8行目は「弱強弱弱強弱弱」に なっているようです。
実際のグレゴリオ聖歌のアヴェ・ヴェルム・コルプスをきいていたら, 1−2行目と5−6行目が独唱,3−4行目と7−8行目が(前2行と同じ旋律で) 斉唱していました。
3.本文各論
aveo という動詞の命令法の形です。この動詞はほとんど命令法の形で, あいさつ(おはよう,さようなら)とか,単に間投詞的に使われます。 ウルガタ聖書では have と綴られていますが同じものです。 「アヴェ・マリア」は有名ですが,別に聖母マリアに対してだけ使うわけではないし, キリスト教用語というわけでもありません。
ユダはすぐイエスに近寄り,「先生,こんばんは」と言って接吻した。似たような動詞に Salve Regina の salve があります。どちらも日本語では 「めでたし」が定訳となっているようです。
et confestim accedens ad Iesum, dixit "have rabbi," et osculatus est eum.マタイ 26.49
「おめでとう,恵まれた方。主があなたと共におられる。」
have gratia plena. Dominus tecum.ルカ 1.28
なお,ここでは「ようこそ」みたいな意味じゃないかという意見を いただきました。
「クレド」にも Deum verum de Deo vero (真の神からの真の神を)という 句があり,この形容詞は珍しくないのかもしれませんが,わざわざ「真の」 という形容詞をつけたのは,やはりパンがキリストの体であるというのが信 者にも本当らしくないと感じられたからではないでしょうか?
この問題に対しては,「罪に汚れていない純粋な(体)」という意味だという 意見をいただきました。そうかもしれないし,そうでないかもしれません。
キリストの聖体のことです。大文字で Corpus と書いてある本もあります。
ハイドンのテレジアミサのCDのおまけにはいっていたK618では, ここを ex と歌っていました。意味は基本的に変わらないでしょうし,実際, 「クレド」では ex Maria Virgine となっていますが,なぜこのCDだけ歌詞が 違うのかわかりません。
thematic な形容詞から副詞を生成するには,このように語尾をeに変えるのが もっとも普通の方法です。歴史的には古い奪格の形です。
気になるのが hominibus でなく homine と単数になっている点ですが,歌詞 カードの対訳をみると,みな複数として訳しているようです。 韻律のためでしょうか。それとも「人類」みたいな集合的意味で使っているの でしょうか。
と最初書いたら,ちゃんと羅和辞典に「人類」って書いてあるとのお教え をいただきました。すいません,常識ないもんで…。
…と書いたら,そうではなくて「苦しむ」方は,十字架につけられる前の イエスの苦悩を意味するのではないかという意見をいただきました。 このへんは類似の文章をたくさん読んでいればわかるんでしょうが, 私には判断がつきません。
文字どおりには,貫き(per-)穿つ(foro)。
ところで,汗とか血を流す場合には,流れるものを奪格におくのだそうです。 英語にも drip with とかいうのがあるそうです。
しかし,兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。 すると,すぐ血と水とが流れ出た。水が洗礼,血が聖餐を表すとか,水が新しい生命,血が罪の贖いを表す,とか 解説されているようです。 この箇所が引かれているのは,聖餐の儀式をイエスに結び付ける根拠となる 文章だからでしょう。
sed unus militum lancea latus eius aperuit et continuo exivit sanguis et aquaヨハネ 19.34
ところで,モーツァルトの曲では,6行目が unda fluxit et sanguine にな っています。unda というのはオンド・マルトノのオンド,サンタルチアにも placida e l'onda とかいうのがありましたか,「波」のことです。ただし, 詩では水を意味することが多くあり,結局意味は変わりません。語順もちょっ と違いますが,ラテン語では動詞の目的語が2つあるとき,片方だけを動詞の 前に持ってくるなんてのはごく当り前です。
sum + 受動完了分詞 + 奪格という構文のようです。
一般に「先駆けとなる」という意味にもなりはしますが, ここでは文字どおりの意味でしょう。 この単語は prae-「前に」と gusto 「味わう」(< gustus「味」)からできています。 ようやく「体」がパンのことだとわかってきました。
いよいよこの2行が本題です。 で,まとめると「死の審問において,われわれによって先に味わわれますよう に。」これでは全然わかりませんね。いちばん大事な結びの一文なのに,意味 がわからないので困りました。カトリックの教義に詳しい人ならなんでもない んでしょうが。
というわけでいくつかの訳を見てみました。 まず,国内版CDの歌詞カードにもよく引用されている カトリック中央協議会「公教会祈祷文」の訳。
願わくは臨終の戦いに当りて,あらかじめわれらに天国の幸いを味わしめ給え。「天国の幸いを」を補ったわけですね。次にフォーレのレクイエムの歌詞カード の訳(関根敏子)。
われらの臨終の聖餐にあって,慰めとなってください。PC-VAN でこの訳を教えていただいて,ある程度わかったと思いました。 カトリックに「臨終の聖体拝領」という儀式があります。 「いま,我々がここで行っているミサの秘蹟と同じものを, 死ぬときにも行わせてくださいますように。」というのではないでしょうか。
9行目以下も簡単に。
参考 CD: