倭人について記した古い文献には班固『漢書』や王充『論衡』があるが, いずれも 1世紀に書かれたものである。 もっとも『漢書』は前漢のことについて記し, 『論衡』で倭がでてくるのは周のときの話になっているが, いずれも本が書かれた当時の知識を過去におよぼしたものであろう。 なお, ほかに『山海経』にも記載があるが, 『山海経』はテキストに問題が多く, 倭について記した箇所が書かれたのがいつか, よくわからない。 『漢書』や『論衡』が書かれた時代より後かもしれない。 ようするに紀元前の中国人が日本を「倭」と呼んでいた形跡はない。
よく知られているように, 57年に倭奴国王の使いが後漢をおとずれた。
このことは袁宏『後漢紀』(4世紀)や范曄『後漢書』(5世紀)に見える。
おそらく 57年にはじめて中国人は日本に関する知識を得たのであり,
「倭」の字もこの時にあてたものだろう。
(追記)
『後漢書』には武帝が朝鮮を滅ぼしてより,
(倭の)30あまりの国が漢に使いを送ったといい,
なんとなく前漢のことであるようにも読めるが,
『後漢書』のこの文は『三国志』の「漢時有朝見者。今使訳所通三十国」
をもとに書かれたことがあきらかである。
もとの『三国志』の文は武帝と関連づけていないので,
「漢時有朝見者」が前漢のことか後漢のことかはわからない。
おそらくこれも 1世紀の倭奴国王らのことをさしていたのだろう。
「倭」の字は, 日本を意味する場合をのぞいてはそれほど頻用されないが, 『詩経』の「四牡」に「四牡騑騑, 周道倭遅」とある。 4頭だての馬車で行く臣の歌で, 「周道倭遅」は道 (「周道」は毛伝では「歧周の道」という意味にとるが, 朱子は「大道」の意味とする。 おそらく朱子が正しい) がうねうねとけわしく遠いという意味である。 この「四牡」は『儀礼』の「燕礼」および「郷飲酒礼」に 「鹿鳴・皇皇者華」とともに歌われると書かれている重要な詩なので, その文句はよく知られていただろう。
ただ, 1世紀にこの箇所が「倭遅」という字になっていたかどうかは問題がある。 『漢書地理志』の右扶風・郁夷のところに「詩: 周道郁夷」と書いてあり, 班固の見たテキストでは「郁夷」になっていたようだ。 また『文選』に載せる潘岳『西征賦』の「登崤阪之威夷, 仰崇嶺之嵯峨」の注に 「韓詩曰: 周道威夷」 と言っているので, 「威夷」とも書いたものらしい。 『経典釈文』の「四牡」の「倭」の字の下に「本又作委。於危反」といい, また「倭遅, 歴遠之貌。韓詩作倭夷」という。 『説文解字』では 「倭, 順皃。从人, 委声。詩曰: 周道倭遅」 と, 現行の『詩経』と同文になっているが, これは許慎が古文の毛詩によったためであろう (ただし『説文解字』の引く詩の文が現行の『詩経』とつねに一致するわけではない)。 古文は後漢の正統な学問ではなかったので, 当時一般に使われていた詩のテキストには「倭」の字はなかったかもしれない。
投稿時刻 2006-09-25(丁巳) 10:41 於 言語::中国語 | コメント (0)