東アジア諸言語のローマ字表記: 1.中国語

中国語のローマ字化は16世紀のイエズス会の宣教師 (いわゆるマテオリッチ式。「上」を xam と書く) 以来の歴史を持つ。 また官話だけでなく多くの方言もローマ字化して記述されたが, ここでは現在も用いられている官話系のローマ字化のみについて記す。

1.Wade-Giles式 [略称 WG]
英国の Sir Thomas Wade が 1859年に考案し, Herbert Giles が改良したもの。 欧米で中国の固有名詞などを表記するためによく使われるが, 最近はピンインに押され気味。
大漢和辞典を始めとして, 日本の古めの辞書や学習書で使われているのは Wade-Giles 式ではなくて本来の Wade 式であるようだ。
表記としては特殊なアクセント記号などを多く使うことに特徴があり, しかも新聞などの表記ではこの記号を省略してしまう結果, ひとつの綴りが多くの音を表す不正確な表記になってしまう。 また中国語の音韻体系から考えても不自然なところが多い。
なお, 北京を Peking, 広東を Canton と書いたりするのを「Wade-Giles式」と書いてある文献が非常に多いが, まったくのでたらめなので信用しないように。 これらの地名の綴りを誰がいつ考案したのか私は知らない。 FAQ of Alt.taiwan.republic では Chinese Post Office system と呼んでいる。 この方式について趙元任「Mandarin Primer」p.17 には以下のように書いてある。

For example, the 1936 edition of the Postal Atlas, published by the Directorate General of Posts of the Ministry of Communications, follows the Wade system for most names of small places, but a different system for the names of the provinces (see Lesson 16) and some of the larger cities, and still other systems in some of the names of places in the coastal provinces.

一方, Leon Trotsky on China の附録の表 では「漢口」を hankow と記すのを Morrison system と呼んでいる。 Morrison とは 1807年に中国を訪れ, 聖書を中国語に翻訳した英国のプロテスタント伝道師 Robert Morrison (馬理遜)のことか?

2.国語羅馬字(Gwoyeu Romatzyh) [略称 GR]
1920年代後半に, 注音符号とともに「国語」を表記するための方式として考えられた。 趙元任等の案による。 趙元任の有名な中国語教科書「Mandarin Primer」や文法書「A Grammer of Spoken Chinese」で使われている。
特徴的なのは声調を数字やアクセント記号を使わずに綴りの違いで表す tonal spelling を採用していることで, アクセント記号なく26文字のアルファベットのみで書けるという長所がある。 しかし声調の違いを表す方式は趙元任以外の人間には覚えられないというほど 複雑であり, ほかにも「可読性を増すため」のさまざまな不規則な綴りがある。 現在は欧米の語学者がたまに使う程度である。
現在, ピンインで声調記号を省略すると「陝西」と「山西」の区別ができないので, 前者は a を重ねて Shaanxi と書かれるが, これは Tonal spelling の応用である (ただし本物の国語羅馬字では Shaanshi)。 「彭」さんがラテン文字で名前を書くときに Perng と書くことがあるのも, Tonal spelling に由来するのかもしれない。
国語羅馬字は 1940年には 「訳音符号字」 と改称された。 現在, 台湾では国語羅馬字から tonal spelling を除いたものを正式なローマ字としているらしい。 「5. 国語注音符号第二式」 を参照。
参照: A Guide to Gwoyeu Romatzyh Tonal Spelling of Chinese in The Yuen Ren Society
3.ピンイン(Pinyin Zimu) [略称 PY]
1930年ごろソ連で実施された諸民族の言語のローマ字化運動の影響を受け, 中国語についてもラテン化新文字というのが作られた。 ピンインもその流れにつながるが, 声調を表さないラテン化新文字とはずいぶん違ったものになっている。
ちなみにピンインのインはもちろん「音」だが, ピンは「併」の人偏を手偏に変えた字で, JIS X 0208 には存在しない。 JIS X 0212(補助漢字)の 31-57 にある。 UCS では 62FC。
1958年の「漢語pin音方案」をもとにしている。 中華人民共和国の正式なローマ字表記である。 本来は漢字を廃止した暁にその代用となる正書法として設計されたが, 大躍進でポシャったらしい。
John DeFrancis, The Chinese Language -- Fact and Fantasy. University of Hawaii Press, 1984.
の p.275 を参照。 いまのところ漢字は安泰であり, ピンインは教育や難しい字の音注, 看板・商品名の表記程度にしか使われていない。
政治的な背景もあって, 中国以外では長く Wade-Giles 式を使っていたが, 現在は欧米のジャーナリズムもピンインを使うようになってきている。
もともと中国国内で使うことに設計の主眼があったため, 西欧での伝統的なラテン文字の使い方にとらわれない斬新な綴りを採用している ([ts] を c で, [tc'] を q で, [c] を x で表すなど)。 そのおかげで特に語頭子音の表記は合理的になっているが, ピンインに詳しくない外国人にとんでもない読み方をされてしまう欠点がある。
4. Yale大学式
第二次大戦中に米軍のパイロットを教育するための教科書用に作られたらしい。 台湾や米国での外国人の教育の目的ではよく使われている。 教育以外の目的に使われることはないが, なかなかよくできた方式である。
ピンインとよく似ているが, 国語羅馬字に似た点もある。 全体的により外国人向けであると言える。 たとえばピンインが q x c などに特殊な音を割り当てているのに対し, Yale 式は j ch sy のようにより穏健な綴りを割り当てている。 ウムラウトが必要ない点も優れている。
5. 国語注音符号第二式
1984年教育部公布。 1986年以降, 台湾の正式なローマ字つづり方として認められており, 「国語辞典」 の修訂本(1987) などの権威のある書物がこの方式を採用している。 中央日報 1999年1月27日の記事: 跨部會商定路街地名護照姓名統一英譯 によれば, 台湾の地名ローマ字つづりは, ウェード式など各種の方式が使われてきたが, 1999年からこの方式に統一することにしたという。 しかし, 中央日報 2000年10月31日 中文譯音教部報核漢語pin音 などによると, その後いくつもの論争を経て, 結局大陸式ピンインを使うように方針が変更されたようだ。
くわしくは台湾教育部の 国語注音符号の歴史のページ(Big5) を見られたい。
基本的には 「2. 国語羅馬字」 から tonal spelling を除いたものに近いが, それ以外にもいくつか違いがある。 jr, r, tz, tsz, sz などの記法は Yale 式にならったものと思われる。
国語羅馬字 el ong jy ry tzy tsy sy
注音符号第二式 er ung jr r tz tsz sz
結果としてピンインによく似ている。 声調を表す記号の付け方もピンインと同じである。 ただしピンインより少し綴りが長くなってしまう場合が多い。 例えば「酔拳」はピンインでは zuiquan だが, 注音符号第二式では tzueichiuan になってしまう。
6. 華語通用ピンイン (Tong-yong Pin-yin)
台湾中央研究院の余伯泉 らが中心になって, 大陸のピンイン(台湾で通用ピンインと区別するために漢語ピンインと呼ばれている) に少し変更を加えたもの。 自然ピンインともいう。
教育部国語推行委員会 のサイトにある資料(ただし, この資料の漢語ピンイン部分にはミスがある) および 余伯泉の書簡 によると, 漢語ピンインの q,x,zh などの評判の悪い声母字を c,s,jh に変え, 注音符号第二式と同様に後続の母音によって区別する。 漢語ピンインの zhi, zi はそれぞれ jhih, zih とする。 韻母の方ではやはり評判の悪い u ウムラウトを yu で表し, iong は yong とする。 また, wen/weng/feng のかわりに wun/wong/fong を用いる。 (しかし, 上記余伯泉書簡と同じサイトの 通用pin音輸入法對照表 では, wen/weng/feng になっている)
さらにビン南語や客家語, 高山族の言葉も表現できるようになっているという。 台北市では 1997年から道路標識などに採用した。 1999年7月に行政院はローマ字として漢語ピンインを採用するという結論を出したが, それ以後, 漢語ピンイン派と通用ピンイン派の大論戦(中文譯音大戰)となった。 最終的に 2000年10月30日に教育部長の曾志朗が漢語ピンインを採用したため, 現状ではおそらく通用ピンインは消滅に向かうと思われる。
(2002-10-01 追記) と思ったが, 2002年になって, また行政院が地名表記に通用ピンインを使うことを奨励。 しかし台北市や新竹市・県では漢語ピンインを使うらしい。 まだまだ泥沼は続く。
なお, 通用ピンインは Dan Jacobson (積丹尼) によってコテンパンに批判されている。 かれによると, 台北市で 1997年に採用されたあとにも表記法がコロコロ変わったために, 現在台北にある 632 の標識のうち, 今の通用ピンインにあわないものが 193 もあるそうだ。
7.入力方式としてのローマ字
中華人民共和国・台湾とも字形による入力が普及しているが, もちろんローマ字入力もある。 もっとも台湾ではローマ字よりも注音符号による入力が普通のようだ。 一番平凡なやり方としては, ピンイン・Yale大学式・粤音式などをほぼそのまま使う。 ピンインの点つき u は v で代用する(uu で代用するのも見たことがある)。 しかしこれでは打鍵数が多くなってしまうので, 双ピンといって 2打で 1字ぶんのピンインを入力する方法が発達している。 双ピンにはいくつもの流儀があるが, 考え方は同じで, 声母を一打(たとえば zh を a, ch を i, sh を u, ゼロ声母を e に割り当てる) 韻母を一打(2文字以上の韻母を a i u e o 以外のキーに割り当てる) で入力する。
おもしろいのは, たとえば iang と uang, ia と ua, ui と ue のように, 複数の韻母に同じキーを割り当てていることで, このおかげでアルファベット 26字ぶんのキーにすべての韻母が収まっている。 異なる韻母が同じ打鍵になるのは不都合のようだがそうではなく, たとえば iang と uang であれば, 声母 d n l j q x y の後ろには iang はつくが uang はつかず, g k h zh ch sh の後ろには逆に iang はつかずに uang はつくから, 声母で区別がつくのである。 中国語の音節構造の特徴を生かした実に巧妙な方式といえる。

通用ピンインを除いた 5つの方式の違いを簡単に示す。 まず頭子音(声母)。 w については頭子音がゼロで, 介母音 u がついたものという考えも可能。

ピンイン bpmfwdtnlgkhzhchshrjqxzcs
Yale式 bpmfwdtnlgkhj chshrjchsydztss
国語羅馬字 bpmf(ゼロ)dtnlgkhj chshrjchsh tztss
注音符号第二式 bpmfwdtnlgkhj chshrjchsh tztss
Wade-Giles pp'mfwtt'nlkk'hchch'shjchch'hststs's

主な違いが zh 以降の摩擦音・破擦音にあることがわかる。 ピンインの zh/j, ch/q を他の方式は区別しないが, これは後ろにくる母音で区別がつくのである。 これらの摩擦音・破擦音の後ろに(ピンインの) -i がついた場合を下に示す。

ピンイン zhi chi shi ri ji qi xi zi ci si
Yale式 jr chr shr r ji chisyidz tszsz
国語羅馬字 jy chy shy ry ji chishi tzytsysy
注音符号第二式 jr chr shr r ji chishi tz tsz sz
Wade-Giles chihch'ihshihjihchich'ihsitzutz'ussu

この点については, 注音符号第二式は Yale 式と同じである。 ピンインの si に対応する Yale 式は xyi と書いてあるものもあるが, 不可解。

要するに zhi や zi の i は他の方式では y とか ih とか r とか z とかで表すのだが, ピンインの zi/ci/si に対応する Wade-Giles 式の綴りはかなりアドホックである。 ピンインでいえば zi と zu の違いを tzu と tsu のように子音の方で区別するのだから驚きである。 なお基本的に Wade-Giles 式に従う地名表記で, これらを tze/tz'e/sze のように綴る変種もある。 (例: Szechuan 「四川」 Yangtze River「揚子江」)

頭子音以外の部分。 国語羅馬字については第一声の場合を示す。 ピンインの o, ong についてはそれぞれ音韻的に uo, ueng であると解釈することも可能であるが, ここでは分けている。 また iong は \"u + eng と考えることもできる(注音符号ではそのように綴る)が, ここでは i+ong と考えている。 Yale 式の yung という綴りがどっちの解釈をとっているのかは不明確である。

ピンイン a ai ao an ang e ei ou o \^e en eng ong
i
yi
u
wu
\"u/u
yu
er
Yale式 a ai au an ang e ei ou o ? en eng ung
i
yi
u
wu
yu er
国語羅馬字 a ai au an ang e ei ou o \'e en eng ong
i u iu el
注音符号第二式 a ai au an ang e ei ou o ? en eng ung
i u iu er
Wade-Giles a ai ao an ang e ei ou o ? en eng ung
i u
wu
\"u
y\"u
erh
ピンイン ia
ya
iao
yao
ian
yan
iang
yang
ie
ye
iu
you
in
yin
ing
ying
iong
yong
Yale式 ya yau yan yang ye you in
yin
ing
ying
yung
国語羅馬字 ia iau ian iang ie iou in ing iong
注音符号第二式 ia
ya
iau
yau
ian
yan
iang
yang
ie
ye
iou
you
in
yin
ing
ying
iung
yung
Wade-Giles ia
ya
iao
yao
ien
yen
iang
yang
ieh
yeh
iu
yu
in
yin
ing
ying
iung
yung
ピンイン ua
wa
uai
wai
uan
wan
uang
wang
uo
wo
ui
wei
un
wen

weng
\"ue/ue
yue
\"uan/uan
yuan
\"un/un
yun
Yale式 wa wai wan wang wo wei wun
wen

weng
yue ywan yun
国語羅馬字 ua uai uan uang uo uei uen ueng iue iuan iun
注音符号第二式 ua
wa
uai
wai
uan
wan
uang
wang
uo
wo
uei
wei
uen
wen

weng
iue
yue
iuan
yuan
iun
yun
Wade-Giles ua
wa
uai
wai
uan
wan
uang
wang
uo
wo
ui
wei
un
wen

weng
\"ueh
y\"ueh
\"uan
y\"uan
\"un
y\"un

ただし Wade-Giles 式の e/o/uo の使い方は他の方式とかなり異なる。 ピンインの e/uo の対立を, Wade-Giles式は 頭子音が k/k'/h およびゼロのときは o/uo, それ以外のときは e/o のように書く。

ピンイン ge guo de duo
Wade-Giles式 ko kuo te to

ピンインには実はほかに io とか n, ng, m のような音節形成子音がある。

中国語の母音を表すにはラテン文字はかなり不適切であり, どの方式でも妥協が激しい。 一般的にいうと, 国語羅馬字とYale式は音韻的整合性・経済性を追求しているようであり, ピンインはより実際の音声に近づける傾向がある(ao, ong, iu, ui などの綴りがそれを表す)。

ピンインおよび現在の注音符号第二式では, 介母音がついた場合に, 頭子音があるかどうかによって綴りが変わる。 これには音声的根拠もあるのだが, 複数の音節をつなげて書くときに紛らわしくないようにという配慮だろう。 (たとえば yin を単に in と書くと pinin がピンインだかピニンだかわからなくなってしまう)。 Yale式は, 介母音を常に y/w/yw のように書くので, この書き分けは i/in/ing のように i が主母音であるときのみ発生する。

また, ピンインではウムラウトを使うが, その使用をなるべく減らすために, 自明な場合にはウムラウトを省略する。 すなわち頭子音がゼロの場合は yu と書き, また j/q/x のあとは [u] がくることがないので省略する。 結局ウムラウトを書くのは頭子音が n か l のときだけである。 (nue, lue のような音節は存在しないから, この場合もウムラウトを省いてよさそうなものだが, そうはしていない。)

さて前述のとおり国語羅馬字では声調によって綴りが変わる。 下に例を示す。 軽声は前に . をつける。 第三・四声は上下二段にわかれているものがあるが, 下は声母がゼロの場合。 実際にはほかにも頭子音が m/n/l/r のときの特例があったりして煩雑をきわめる。

第一声a ai au ei ou i u iu ia ie ua uo iue iau an ian in ang iang el
第二声ar air aur eir our yi wu yu ya ye wa wo yue yau arn yan yn arng yang erl
第三声aa ae ao eei oou ii
yii
uu
wuu
eu
yeu
ea
yea
iee
yee
oa
woa
uoo
woo
eue
---
eau
yeau
aan ean
yean
iin
yiin
aang eang
yeang
eel
第四声ah ay aw ey ow ih
yih
uh
wuh
iuh
yuh
iah
yah
ieh
yeh
uah
wah
uoh
woh
iueh
yueh
iaw
yaw
ann iann
yann
inn
yinn
anq ianq
yanq
ell

より詳しいピンイン・Yale式・Wade-Giles式の対照表は以下にある。 この手合には嘘が書いてあるものが多いので注意。


文字コードの話に戻る 中国語 日本語 韓国語