東アジア諸言語のローマ字表記: 2.日本語

母音が 5個ですみ, 無気音と帯気音の区別もない, 発音体系が比較的単純な日本語は, ローマ字化しやすい言語と言える。 また中国語と異なり日本語にはもともと仮名があるのもローマ字化に有利である。 しかしローマ字化の努力が行われた時代にはまだ現代仮名遣いは行われておらず, 仮名遣いと実際の発音との乖離が大きいという問題はあった。 また, 日本語には動詞の活用があるので, 語幹の形の維持と発音への忠実さのどちらをとるかという問題もあった。

日本語には(中国語も同様だが)分かち書きの習慣がないので, ローマ字で文章を書いた場合どこで語を区切るかは大きな問題だった。 しかしローマ字そのものが日本語の正書法として定着せず, せいぜい固有名詞の表記に使われる程度にとどまっているので, 今やこの問題にはほとんど関心が寄せられていない。

1.ヘボン式 (標準式)
羅馬字会「羅馬字にて日本語の書き方」(1885)によって定められた。 岡島昭浩氏の文字・表記のページにこの文章を GIF に落したものがある。 ヘボン(James Curtis Hepburn, 1815-1911)の和英語林集成第3版(1886, 正確な題名は改正増補和英英和語林集成)で採用されて普及したためにヘボン式と呼ばれる。 修正ヘボン式(Modified Hepburn Method), 標準式とも呼ぶ。
羅馬字会は 1894 に活動停止しているが, その後もローマ字ひろめ会(1905), 標準ローマ字会(1938) などが設立された。
母音に aiueo, 子音に kgszjtdnhfbpmryw のほか sh ch ts ky gy ny hy by py my ry の組み合わせを用いる。 「ん」は一般に n で表すが p/b/m が後続するときは m を使う。 「ん」の次に母音または y が続くときは間に - を挿入する。 「っ」は後続する子音の先頭一字を重ねる。 ただし後続する字が c の場合は t で表す。 長母音は母音字の上に横線を加えることによって表す。
上記「羅馬字にて日本語の書き方」では, 助詞の「へを」を ye/wo で表記している。 また「火事」の「火」は ka/kwa のどちらでも構わないとする。
ヘボン式以前にも多くのローマ字表記法があったが, ヘボン式では子音の表記は英語式を, 母音の表記は大陸(イタリア語)式を採用している。 これはかなり成功だといえる。 言語学者には「ハヒフヘホの子音はすべて違っているのにフだけを f で表記するのはおかしい」 というものもあるが, 子音は英語式を採用したのだからフだけ区別するのは当然である。 駅名・道路名表示に使われているほか, 外国語の文章の中に日本語の単語を挿入する場合にこの方式がもっともよく使われる。 事実上の標準と言える。
しかし, 日本でヘボン式が国家規格になったことはない(米国・英国ではある)。 ひろめ会や標準ローマ字会などがそれぞれ手引き書を出したようだが, 長音符号や「ん」の書き方などにそれぞれ微細な違いがある。 上記岡島氏のサイトにある藤岡勝二「ローマ字手引き」や, 海津知緒氏のサイトにある ローマ字資料室 を参照。
(2000-04-19 追記) 駅名のローマ字表記規則については, 昭和22年7月26日の達第398号「鉄道掲示規程」があり, JR は基本的にこれに従っているらしい。 私鉄もおおむね同様だが会社ごとに少しずつ異なる。
パスポートの名前に使うローマ字は基本的にヘボン式から長音符号を抜いたものである。 もっとも旅券法施行規則第5条には長音符号を除くとは書いてないのだが? この方式に対する不満が 私情通信#11(1997年6月)「虫の居どころ」(大山智子氏) および 今井徹氏の日記(1995年11月29日) に見られるが, 両者とも「オ長音」を「OH」と書けないことに対する不満であるのが興味深い。
(2000-04-19 追記) 2000年4月からは, 「氏名の長音表記申出書」 を提出することによって, パスポートで「オ長音」を「OH」と表記できるようになったそうだ。
2.日本式
「にっぽんしき」と読む。 物理学者の田中館愛橘(1856-1952)による 「本会雑誌ヲ羅馬字ニテ発兌スルノ発議及ビ羅馬字用法意見」(理学協会雑誌第16巻,1885) が基礎となる。 ただし, この論文は五十音図をローマ字で書いているだけで, 具体的な書き方の記述は乏しい。 翌年, 田中館はこの修正案を羅馬字会に提出したが否決された。 また, 1908年には「ローマ字ひろめ会」が綴り方をヘボン式に統一しようとしたため, ヘボン式によるローマ字運動とたもとを分かち, おなじく物理学者の田丸卓郎(1872-1931)等と 日本のローマ字社(NRS, 1909年)や 日本ローマ字会 (1921年)を設立した。
(2002-10-09 追記) 日本ローマ字会は 1999年以降後述の「99式」ローマ字を正式採用している。
田丸の「ローマ字国字論」(1914)はすぐれた理論書だが, ローマ字を日本語の正書法としてとらえているので, その議論は, ローマ字が単に固有名詞を記す手段として使われている現状にはあまりなじまない点が多い。
日本式とヘボン式の主な相違点は後述する。 長母音は母音字の上に(横線でなく)山形アクセント(^)を加えることによって表す。 「ん」は必ず「n」で表す。 「ん」の次に母音または y が続くときは間に ' を挿入する。 ほかに, 名詞を大文字で始めるなどの特徴がある。
日本式は日本語の構造に即して設計されているので, ヘボン式より経済的である。 すなわち f,j,c などが必要ないし, 文章の長さもヘボン式より少し短くなる。 また音韻論的に考えても, 日本語では fu/hu の対立は存在しないので, フは hu と書いた方が合理的である。 さらに, ヘボン式では動詞の活用によって語幹の形が変わってしまうことが多いが, 日本式はより五十音図に近づけたために語幹の形は変わりにくい。 それ以外の点では日本式はヘボン式と非常によく似ている。
なお, 日本式では ka/kwa, zi/di, o/wo などを区別しているが, 田丸卓郎によればこれは日本式ローマ字の特徴ではなく, (話される言葉としての)日本語自身これらの音の区別が可能であるからだという。 東京の普通の言葉でこれらを区別しないのは「新宿」を「しんじく」と発音するのと 同じ東京なまりに過ぎず, 区別している人も多いためであるそうで, 日本語がこれらを区別しなくなったあかつきには, ローマ字としても区別しないでよいと主張している。
この主張に従うならば, 現在の標準的な日本語ではこれらは音として区別しないので, 日本式は次に述べる訓令式と同じということになる。
参考:
ローマ字日本語
ローマ字文庫
3.訓令式
1954年12月9日の内閣告示「ローマ字のつづり方」で定められている。 1937年9月21日の内閣訓令第三号「国語のローマ字綴方に関する件」を基礎にしているので 「新訓令式」さらに略して単に「訓令式」とも呼ぶ。 この内閣告示は, 日本式から上記 kwa, di, wo などを除いたものを「第1表」とし, それ以外のヘボン式・日本式の綴り方は第2表にまとめて 「国際的関係その他従来の慣例をにわかに改めがたい事情にある場合に限り」 使ってもよいとしている。 もっとも「ん」は「n」のみ, 長音は「^」のみしか認めていないので, 現在駅名などに使われている多くの綴りは第2表にも一致していない。 五十音図にある音および(ャュョのつく)拗音だけを対象にし, 「特殊音の書き表わし方は自由とする」と書いてある。 また分かち書きなどの細部については何も定めていない。 (他に文部省「ローマ字文の書き方」があり, こちらでは分かち書きなどの指針も示している)
一般に「訓令式」と呼んでいるのは第1表に従う表記をさす。 公式の文書ではしばしば訓令式を使わなければならない場合がある。 たとえば JIS Z 8301 (規格票の書き方)では規格の英文名に訓令式を使うよう定めている。 国際規格 ISO3602:1989 “Documentation -- Romanization of Japanese (kana script)”も訓令式とほぼ同じ方式を採用している。
(2000-04-19 追記) 海上保安庁水路部 の海図は基本的に訓令式に従っているようだが, 長音を(「^」でなく)横線で表している。 また, Moji(門司) Uwajima(宇和島) のように一部訓令式と異なる綴りを使っているようだ。
(2002-10-09 追記) 2002-04-01 以降, 上の海上保安庁水路部は 海上保安庁海洋情報部に変わった。 URL も変わった。 かんじんの海図のローマ字だが 2000年分よりヘボン式に変更 されている。 参照: 「日本の海 日本の海図」(日本水路協会) 『海と安全』(2002-2)
4.新日本式
言語学者の服部四郎が考案。 訓令式に対抗する案として提出したが採用されなかった。 音韻論的に見て矛盾の少ない正書法であることを特長とする。 服部四郎「音韻論と正書法」という本で, なぜ新日本式が優れているかを日本語の音韻論とともに説いている。 すでにヘボン式と日本式という二大方式が使われており, 新日本式はそのどちらとも異なるものだったため受け入れられず, 現在は一部の学者が使うにとどまる。
(昔 NEC PC-6601 だかのワープロで新日本式のローマ字を使うのがあって, えらく不評だった記憶があるんですが, どなたかご存知ありませんか?)
訓令式と非常に近いが, タ行については五十音図にこだわらずに “ca ci cu ce co cya cyu cyo”で 「ツァチツツェツォチャチュチョ」を表すところが大きく異なる。
5.入力方式としてのローマ字かな変換
非常によく普及している。
ローマ字かな変換の方式はいろいろなものが試みられたが, 1980年代末ごろにはどれも大同小異になった。 現在日本規格協会は変換方式の標準を審議中。
(2002-10-09 追記) その後 JIS X 4063:2000 「仮名漢字変換システムのための英字キー入力から仮名への変換方式」が制定された。
かな漢字変換システム中のローマ字仮名変換に限らず, たとえば全日空のインターネット予約サービスでは, 名前をこの方式のローマ字で入力する必要がある。 カタカナ変換入力例を参照。
中国や韓国と異なり, 基本的には訓令式・ヘボン式をそのまま採用している。 両方ごちゃまぜで使えるところが気がきいている。 ただしヘボン式の「tcha」は使えず, 「ccha」と入力しなければならないのが普通。 また「ん」は「n」のみを認めているのが普通であり, 「mma」と書くと ヘボン式の「んま」ではなく「っま」になってしまう。
いままでに述べてきた綴り方とは異なり, 仮名に対応づける必要があるので, 「おうou」と「おおoo」, 「おo」と「をwo」, 「じzi/ji」と「ぢdi」 などを区別するし, 助詞の「は」「へ」は「ha」「he」とかかなければならない。 長音「ー」は「-」で表す。 記号は「,./[]」を "、。・「」" に変換するものが多い。 踊り字「ヽヾゝゞ」や単独の濁点「゛゜」は一般に仮名の一種と考えられているが, ふつうはローマ字から変換できない。
ほとんどのシステムでは入力を容易にするため「ん」を「n'」だけでなく 「nn」でも入力可能にしている。 このため「ん」のあとにナ行音が続くと「nnn」と入力しなければならない。
「ぁxa ゃxya っxtu ヴvu」のように, 特殊音を表すための入力方法が発達しているのも特徴である。 以前は「ぁ」を表すのに ATOK が「LA」, VJE が「XA」を採用していたが, 現在は ATOK でも「XA」が使えるようになっている。 ただし JIS にある仮名のうち JISキーボード上にない「ヰヱヮヵヶ」は ローマ字入力できないシステムが多い。 wi we が「ヰ・ヱ」になるものと 「ウィ・ウェ」になるものとがあり統一されていない。
使用度の低い「スィ・ツィ」は suxi tuxi のように入力する必要があるが, よく使う「ティ・トゥ・デュ・ヴァ・ウォ」などは texi toxu dexyu vuxa uxo の他に thi twu dhu va who でも入力できるシステムが多い。 便利だが, きわめてアドホックで, 美しいとは呼びがたい。
(2002-10-09 追記)「ツィ」については tsi で入力できるものが多いようだ。 JIS X 4063 の表2にも「ツィtsi」がはいっている。
6.その他
田丸卓郎の本を読むと, 大正時代においてすでに実にさまざまな方式が存在したことがわかる。 なかなか楽しいが, 省略する。
ヘボン式や訓令式を少し修正した方式がいくつか存在する。 たとえばヘボン式に従うが「ん」だけは常に n と書くもの, 長母音を oo のように母音をふたつ重ねることで表すものなど。 たとえば, Eleanor Harz Jorden の本で使われている BJ ローマ字(BJ とは Bernard Block & Eleanor H. Jorden, Spoken Japanese. Hort, 1945 の著者名に由来)は基本的に訓令式に従っているが, 長音を母音を重ねることによって表記し, かつ「皇帝」を kootee のように書き表す, といった変更を加えている。
E.H.Jorden & Mari Noda, Japanese: The Spoken Language. Yale University Press, 1987.
E.H.Jorden, Beginning Japanese. Yale University Press, 1963.
一方, より仮名遣いとの対応関係を重視しようと考える人もある。 オ長音を ou と oo で書き分けたり, 助詞の「はへを」を ha he wo で表したり, 四つ仮名を区別したりするのがそうである。 日本人が日常仮名を使っている以上, このような方式も一考に値する。 とくに, ローマ字かな変換システムがほとんどこの方式を採用しているので, それに慣れた人間が, かなに変換する場合以外でも仮名遣いに対応したローマ字表記を使いたがる傾向がある。
海津知緒氏のように 積極的に仮名遣いに対応するローマ字を使うことを主張している人もある。 (このページは他のローマ字についても詳しく紹介していて有用である)
日本ローマ字会が最近採用した 「99式」も, 日本式をもとにしつつ, 長母音の書き方を仮名に合わせ, 外来語などの書き方にも仮名と一定の規則的対応を持つようにしたもののようである。
無声化した u などの母音を省略した表記もいろいろ試みられている。 古くは江戸時代のオランダ人等による日本語表記にも見えるし, 和英語林集成の第一版でも省略していた。 日本人によるものでは佐久間鼎の 0式がとくに有名。 ただしあまり成功したものはないようだ。

日本語のローマ字については一般によく知られているので, 細かい表は省略し, 方式によって異なる部分だけを下に記す。 違いはそれほど大きくなく, ヘボン式と日本式をちゃんぽんで書いても実用上の支障はほとんど生じない。

仮名 シャジャチャ
ヘボン式shisha jija chicha tsufu
日本式 si sya zizya ti tya tu hu
新日本式si sya zizya ci cya cu hu

以上は内閣告示の表にある場合であるが, 表にない場合の綴りがヘボン式では表にある場合から類推しやすいのに対し, 日本式ではそれがまったく不可能である。 よく言えば日本式が合理的で冗長度が低いからこうなるとも言えるが。

仮名 スィズィツァツィティディトゥドゥファ
ヘボン式si zi tsa tsi ti di tu du fa
日本式 (?) (?) (?)(?) (?) (?) (?) (?) (?)
新日本式(?) (?) ca (?) ti di tu du (?)

日本式が考案された時期には「ファ」「ディ」などについては考慮しなくてよかったのかもしれないが, 「ファミコン」「ディスコ」などが日常語になっている現在はとても受け入れがたい。 まあ f は日本式では使われていないので「ファ」などのために特別に f を使うようにすればいいだけの話だと思うが, 「ティ・トゥ・デュ」などは日本式ではどうにもうまく表せないのである。 新日本式はこの点よくできている。

「チャ」「ジャ」については, ヘボン式と日本式を折衷した「cya」「jya」というつづりをよく見掛ける。 (じつは「ヘボン式」の名のもとになった和英語林集成第3版自身にもすでに jyu という綴りが見られる)

どの方式でも「あっ」のローマ字表記は規定されていないか, 規定されていても安定していない。 a' aq at などの書き方があるようだ。

同じ綴りがヘボン式と日本式で異なる音を表すのは si zi ti di tu du などだが, ローマ字かな変換システムではこれらの綴りについてはおおむね日本式の解釈を採用している。 ヘボン式の好きな人でもローマ字かな変換では 「シチツ」についてだけ日本式で入力している人が多いようだ。

未調査メモ:

参考文献(まだいいかげん):

個人的意見: 日本式とヘボン式は(中国語や韓国語に比べれば)たいして違わないんだし, 思想信条の違いを反映しているわけでもないので, ちゃんぽんに使っても構わないと思う。


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